ピオ神父のガラバンダルへの信仰

ジョーイ・ロマンジーノは、ピオ神父と話した時のことを次のように語っている。「私たちは、その日のうちにもう一度戻ってくるように手配し、修道院でピオ神父に挨拶しました。私たちはひざまずき、『ピオ神父様、聖母がガラバンダルの4人の少女に現れたというのは本当ですか?』と尋ねました。すると彼は『そうです』と答えた。私たちが『ピオ神父様、私たちはそこに行くべきでしょうか?』と言うと、彼は『そうだ、なぜ行かないんだ?』と言いました。このような次第でした。聖母が現れているという確証をピオ神父から得て、行くことを許可されたので、私は恐れることなくそこへ行きました」
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聖ピオ神父、告解においてガラバンダルを真実であると認める

1968年7月、ジョアシム・ブフレ博士はピオ神父のもとへ告解に訪れた。ピオ神父は彼に言った。「聖母に祈りなさい。カルメル山の聖母に自分を奉献するように」「はい、神父様。カルメル山の聖母に祈ります。さらに、カルメル会士になりたいと思います」神父はそれについては何も言わず、「ガラバンダルに出現されたカルメル山の聖母に、自分を奉献しなさい」と執拗に繰り返した。
ブフレ博士:「すると、それは本当なんですね?」
ピオ神父:「Certo e vero! (そうだ、本当だ!)」
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ペルティエ神父著『聖母がガラバンダルにやってくる Our Lady comes to Garabandal』 219ページより

「ピオ神父は存命中、聖母の出現の信憑性を保証していた。彼はサン・ジョバンニ・ロトンドでコンチータに会った。人生の最後の日々においても、彼はこのことを修道会の兄弟たちに話し、出現の主要な人物に個人的にメッセージを残した」

書籍『最後の時』141ページより

ピオ神父のガラバンダルへの信仰について
「ある機会にその信憑性について尋ねられたとき、彼はそっけなく答えた。
『信じられるために、聖母は何回出現しなければならないのか?』」
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書籍『義の雷 Thunder of Justice』163ページより

1966年初頭、ピオ神父のガラバンダルへの信仰を裏付ける出来事があった。まだ16歳だったコンチータは、母親とルナ神父と一緒にローマを訪れていた。信仰教理省の長官であったオッタビアーニ枢機卿に招待されていたのである。この訪問中、コンチータはピオ神父と個人的に会っていた。この時神父は、コンチータの手と、ガラバンダルで聖母が口づけした十字架を両手で持った。この十字架は、1965年11月13日の出現の際に、幼子イエスの手を通ったものである。
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1968年にピオ神父が亡くなると、彼の親友であるベルナルディーノ・セナモ神父は、彼の所持品のいくつかをコンチータに渡すように指示した。神父は、ピオ神父の通夜の際に顔を覆っていた三つのベールのうちの一つをコンチータに渡した。これは、聖痕者が生前にそうするように求めていたという。また、コンチータはピオ神父のロザリオと、彼が身につけていた聖痕のついた手袋ももらった。

コンチータはこう語る。「その日の夜、原稿を書いている時に、ベールを目の前に置きました。突然、部屋全体が香りで満たされました。その香りはとても強く、私は泣き出してしまいました」

コンチータに対するピオ神父の感情と彼自身の言葉です。「苦しんでいるかわいそうなコンチータ……心から聖母マリアを愛し、聖母に属し、聖母のために働いている。ガラバンダルの聖母は、山上に足を踏み入れた御方だ……。聖母は山上の星なのだ(ラフィヌール神父はピオ神父の言葉を使って、自身の本を 『聖母は山上の星 She is the Star on the Mountain』と呼んでいる)……またピオ神父は、ガラバンダルの先見者たちを支援しなければならないと付け加えた……
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1962年3月3日、ピオ神父は少女たちに手紙を書いた。

「愛する子どもたちへ

今朝9時、祝されたおとめはあなたたちにこう伝えるように言われました。『ああ、サン・セバスチャン・デ・ガラバンダルの祝された子どもたち! 私は時の終わりまであなたたちと共にいると約束します、あなたたちは世の終わりまで私と共にいるでしょう、そして天の喜びのうちにいるでしょう』」

ピオ神父は続ける。

「この手紙にファティマのロザリオを同封しておきます。これは聖母があなたに送るようにと命じられたものです。聖母はこのロザリオについて口述され、罪人の救いのため、善き御方であられる神が下されるかもしれない最悪の罰から人類を守るために、これが知られるように望んでおられます。私が勧めたいのは、祈り、他者にも祈るように励ますことです。なぜなら世は滅びに向かっているからです。

彼らはあなたたちを信じないし、私たちの白い婦人との会話も信じませんが、彼らが信じる時には、すでに手遅れでしょう」
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ピオ神父は二カ所同時存在(バイロケーション)によってガラバンダルを訪れた!

コンチータはさまざまな問題について助言を求めるために、ピオ神父に手紙を書いた。この手紙がサン・ジョバンニ・ロトンドに到着する前に、ピオ神父の霊的子どもたちのグループ(イタリア人が5名、フランス人、カナダ人、フィリピン人が一名ずつ、ベルギー人司祭一名による)がガラバンダルを訪れ、パードレ・ピオ自身がコンチータを訪問し、彼女の質問に直接答えると告げた。

すると、1967年10月10日、バイロケーション現象(一人の個人が同時に二カ所に存在する能力)によって、パードレ・ピオはコンチータの家を訪れ、一時間ほど滞在した。コンチータは、見間違えようのない修道服を着ていたピオ神父の姿を見、その声を聞き、手に接吻をした。聖痕から出る特徴的な芳香が鼻をついた。

この訪問の最中、ピオ神父は他の話の間に、ガラバンダルを4回訪れたことがあると言い、神父が本当にここにいたことの証しとして、アラマイ語で「祈りのうちに一致して」と書き、P. Pioと署名した。

注:パードレ・ピオはその全修道生活中、イタリアのサン・ジョバンニ・ロトンドの修道院を離れたことがなかったことを特筆しておかなければならない。ピオ神父のガラバンダルへの訪問は、本人のバイロケーション(二カ所同時存在)によってのみ行われたのである。1967年10月10日

書籍 『ガラバンダル 67年、ある年の霊的記録 Garabandal 67, spiritual chronicle of a year』より引用

ガラバンダルの聖母のおかげでエルヴィス・プレスリーの娘が癒された時

ガラバンダルの証し人の一人であるハシンタ・ゴンサレスは、ホセ・マリア・ザバラの最新の著書『時の終わりはすでに来ている Los últimos tiempos ya están aquí』(Custodian Books)の中で、ロックの王様であるエルヴィス・プレスリーの娘が、聖母のおかげで医者から解放された時、重篤な病いから回復したことを明らかにしている。

ガラバンダルの出現の60周年の日、著者(インタビュアーであったザバラ氏)が持ち出してきた話題に際して、ハシンタは、想像を絶するほどの混沌とした状況を体験したことを心に秘めていたと明かす。その話題の一つが「エルヴィス・プレスリーの一人娘、リサ・マリーをガラバンダルの聖母が癒やされた」というものだ。

エルヴィス・プレスリーは、メンフィスのグレースランドの邸宅で急死した。調査の結果、過食と薬の乱用の果てに、エルヴィスは若くして死ぬ運命にあったと結論づけられた。

ところが最近のDNA検査の結果、エルヴィスは11番染色体に問題があり、これは心臓病を引き起こす変異であることがわかった。エルヴィスの母親も若くして急死した。この病気は遺伝的なものだったのである。

エルヴィス・プレスリーの娘は、この原因の発見に際して非常に心配した。さらに、11番染色体の変異は50%の確率で子供に遺伝すると言う医者まで現れたのである。

ハシンタは「奇跡はリサ・マリーが7歳か8歳の時に起こったのですが、父親の遺伝性の病気を知った後にも、ガラバンダルの聖母の執り成しに頼った可能性もあります」と語っている。いずれにしても、リサ・マリーは今日で53歳となっており、その時に生まれ変わったのだ。

リサ・マリーはどうやってガラバンダルの聖母の存在を知ったのだろうか? ハシンタは説明する。「ジョーイ・ロマンジーノは、ニューヨークでエルヴィス・プレスリーに直接会ったことがあります。そしてエルヴィスの娘が重病であり、死の危険にさらされていることを知ったジョーイは、ガラバンダルの聖母の口づけを受けたメダイを彼に託し、少女は治癒しました。ジョーイはいつもメダイを持って世界各地を訪れ、このメダイのおかげで多くの奇跡が起こったと言っていました」。

今週、ホセ・マリア・ザバラの本が発売されました。この本は、基本的には5日間(2021年7月に4日間、9月に最後の1日間)に渡って行われた、ハシンタの8時間のインタビューを収めたものです。スペイン語版のみの発売ですが、アマゾンで購入できるかもしれません。私は英語版を待つつもりですが、翻訳には注意が必要です。(グレン・ハドソン)

マザー・テレサ、ガラバンダルとコンチータ

有名な神の愛の宣教者会の創立者であるマザー・テレサは、ガラバンダルが神に由来するという自身の固い確信について、一度も疑問を口にしたことがない。「サン・セバスチャン・デ・ガラバンダルの出現について初めて耳にしたのは、1970年のことでした……初めから、この『出来事』は本物だと感じていました」(1987年11月10日、デル・バル司教への手紙)。

マザー・テレサは頻繁にアメリカ、特にニューヨークを訪れたが、1972年以来ロング・アイランドに住んでいるコンチータに会う機会があった。これが、コンチータとその家族との人間的また霊的な固い友情の始まりとなり、この友情が衰えたことはなかった。マザー・テレサはコンチータの3人目の娘、アンナ・マリアの代母である。

個人的には、聖ピオ神父とコルカタの聖テレサがコンチータの近しい友人であったことが、出現の信憑性を物語っていると考える。(グレン・ハドソン)

メッセージを生きてください!

コンチータは16歳にしてすでに霊的に賢明であった。「メッセージに従わないのなら、出現を信じても意味はありません」
(『山上の星 』118ページより)

「メッセージを実行しないのなら、出現を信じても意味がありません。母なる教会の言うことに従わないなら……メッセージを実行しているのなら、出現を信じていなくともよいのです」

1965年12月10日、コンチータからバルセロナのアルバ神父に宛てた手紙(『コンチータの日記』(スペイン語版)42、47ページより)。

また『ガラバンダル・希望のメッセージ』 の178ページではこう言っている。

「(預言された)奇跡に関して日付を推測することは、聖母に対する信仰の欠如を示しています。このようなことにエネルギーを費やすより、メッセージを生きることに費やす方がはるかに良いのです」

2013年3月のグレンとコンチータの会話より

様々な幻視者の中で誰が正しいか、日付がいつなのか、教会の方向性等について議論することについて、私が一つ学んだことは、こういった行為はどれも、霊的な目標から私たちを遠ざけてしまうということだ。私がこれまでに得た最高のアドバイスは、コンチータからのものだった(こういったすべての傾向について彼女に尋ねたとき)。彼女は、最も重要なことは霊的生活を維持すること(ゆるしの秘跡、償い、ミサ、聖体拝領、ロザリオ、朝の奉献など)だと話し、こう言った。

「良い人たちに囲まれて、祈り、心配しない」

(コンチータは、友人であるピオ神父の助言を受けたようだ)

コンチータと謙遜

昔、コンチータが若かった頃、ファティマに住んでいたことがあった。コンチータは高齢の司祭たちの住居に毎日掃除のボランティアに行っていた。他の場合と同じく、人目につかないようにマリアと名乗っていた。しかしある日、彼女を知る人が現れ、彼らの住居の床を掃除している女性がガラバンダルのコンチータであることが、直ちに住んでいる司祭全員の知るところとなった。それ以来、すべてが変わってしまった。コンチータによれば、彼女の正体を知った神父たちは彼女への接し方を変えてしまったという。コンチータは、自分の素性を知られてしまったことを残念に思い、匿名で高齢の神父たちに奉仕する方が気が楽だったと言った。

これは聖ベルナデッタの言葉を思い起こさせる。

「聖母は私をほうきのように使われました。掃除が終わったらほうきをどうしますか? 元の場所に戻すのよ、ドアの後ろに!」

警告が起こるのはいつか?

正確な日時は知らされていませんが、警告が間近に迫っていることを示す3つの手がかりが与えられています。3つの手がかりとは、シノドスの後であること(現在も開催されており、これから3年間続きます)、「共産主義が再び到来するとき」、共産主義が世界的に影響を及ぼし、特に宗教への迫害が起こり、そして最後に、教皇がロシアのモスクワへの訪問から戻る(そしてヨーロッパで戦闘が始まる)でした。この3つがそろったとき、私たちは「警告」に近づいているのです!

グレン・ハドソン