コンチータの初めてのイタリア旅行

1966年1月12日─20日

ローマでのバチカン(教理聖省と教皇パウロ六世)、そして福者*ピオ神父との出会い

1965年の夏の時点で、ブルボン=パルマ家**の公女の父親から早くもガラバンダルの「事件」について知らされていた当時の教理聖省の副長官、アルフレド・オッタビアーニ枢機卿の命により、コンチータはついにローマに行くことになった。

今回の旅にはルナ神父、ブルボン=パルマ家の公女セシル殿下、アニセタ(コンチータの母)、そして元駐バチカン・スペイン大使のメディ教授(ローマ大学)が同行した。

オッタビアーニ枢機卿は、二時間以上にわたってコンチータに話を聞いていた。二人の会話についてはまだ部分的な情報しかないが、それでもコンチータが奇跡の日付を伝えたこと、それが起こる同じ日に開催される教会の非常に重要な出来事の内容を伝えたこと、また「推定される」将来の患難について、副長官に答えたことは分かっている。

ローマ教皇庁の何人かの他の重要なメンバーが幻視者を歓迎した。その後、彼女は教皇の聴罪司祭に会い、この司祭にも将来の奇跡の日の日付を教えた。しかしもっと重要なことは、コンチータがわずか5名しか参列していなかった非常にプライベートな謁見の場で、パウロ六世に紹介されたことであり、神意によってそれが起こったのは……1月18日だった! 間違いなく、「キリスト教一致祈祷週間」の最初の日に、幻視者は、将来の「すべてのキリスト教会の再一致」について、「公会議と最後の教皇たち」について、その他、自分が知っていることを教皇に話したのだ。

教皇は最後に、この言葉で幻視者を二度祝福する。「コンチータ、私はあなたを祝福し、私とともに全教会があなたを祝福します」

オッタビアーニ枢機卿との待ち合わせまで24時間あったので、コンチータは同伴者たちと一緒にサン・ジョバンニ・ロトンドに行った。そこで彼女は「友人」と出会った。福者ピオ神父である! ピオ神父はその日、体調が悪かったにもかかわらず、予想に反して幻視者を出迎えに来てくれた。「サン・セバスチャン・デ・ガラバンダルのコンチータもここに来ている」と聞かされると、すぐに迎えに来たのである。面会は温かいもので、有名なカプチン会士は絶えずコンチータを祝福し、彼女のために自分は祈ると保証した。ガラバンダルで聖母の口づけを受けた彼女の十字架について、コンチータは訪問中に福者ピオ神父にその十字架を差し出し、祝福してくれるよう頼んだ。「祝福してください」と願うと、ピオ神父はそれを実行し、小さな十字架を左手の手のひらの聖痕の上に置き、コンチータの手でそれを覆った……

J・セール著『ガラバンダル』204-205ページより

*訳注:この本が出版されたのは1999年であり、ピオ神父の列福は1999年、列聖は2002年である。
**ブルボン=パルマ家(Bourbon-Parma)は、ブルボン家の現在まで続く分枝の一つで、パルマ公国を統治した家系。公女セシル殿下は2021年9月に逝去された。