「彼ら(寮の守衛たち)は理由もなく、私を悪く判断することがありました。ある日、守衛が私について何か悪いことを言っているのを聞いたのを覚えています。私は理解できなかったので、笑い出してしまいました。守衛たちは私の笑い声に腹を立てました。後で私の家でそのことを話すと、みんなが動揺しました。子どもに向かってそんなことを言ったために、家族が看守たちを脅しに来たほどでした。」
マザー・ニエベス(コンチータの学校の学長)の記録メモ『コンチータの回想』より
「彼ら(寮の守衛たち)は理由もなく、私を悪く判断することがありました。ある日、守衛が私について何か悪いことを言っているのを聞いたのを覚えています。私は理解できなかったので、笑い出してしまいました。守衛たちは私の笑い声に腹を立てました。後で私の家でそのことを話すと、みんなが動揺しました。子どもに向かってそんなことを言ったために、家族が看守たちを脅しに来たほどでした。」
マザー・ニエベス(コンチータの学校の学長)の記録メモ『コンチータの回想』より
素晴らしい小さな物語をまたひとつ見つけた。私たちの聖母は「小さな奇跡」を常に起こしており、何年も後になってからそれが気づかれるという話である。以下は、ブルゴスの学校で、コンチータがマードレ・ニエベス・ガルシアの指導を受けていた時の会話だ。この物語は、1966年11月12日にコンチータがマードレに明かしたものである。
コンチータはマードレ・ニエベスに語った。
「コリン神父を知っていますか? 彼は今、教皇になりすまそうとしているの(フランス人で、クレメンス十五世と名乗っており、彼に従う小さなグループと一緒にいた)。彼は私の村に来ました。私と話したがっていましたが、母がそれを許しませんでした。村人たちは最終的に彼を村から追い出しました。それからローマに行った時、コラン神父のそばに私が写っている新聞記事の写真を見せられたんです。そこには彼が私と一緒にいたと書かれていて、他にもたくさんの嘘が書かれていました。私は彼と一緒にいたことは一度もありません。こういう作り話をよくされるんです。
ある日、一人の女性が村にやってきて、カードにサインしてほしいと私にしつこく頼んできました。私は『私たちの唯一の教皇であるパウロ六世を神が祝福してくださいますように求めましょう』とだけ書きました。どうしてそんなことが頭に浮かんだのかは分かりません。その後すぐに、よく知っている神父が私のもとに駆け寄ってきてこう言いました。『あの女性に何て書いたんだ? 彼女はフリーメイソンで、コリン神父の支持者だぞ』。
驚きである!
(グレン・ハドソン)
*写真は教皇クレメンス十五世を名乗るミシェル・コリン氏(1905-1974)
(教皇に就任してからわずか33日後のことであった)
今、私はこのことを理由があって言及しています。彼の死は、実際に預言の誤解のひとつを引き起こしました。コンチータが「世の終わりまで」に「さらに三人の教皇がおられます」と言った時、彼女は教皇ヨハネ・パウロ一世を人数に入れていませんでした。なぜなら、彼の在位期間はあまりに短かったからです(マリアが彼女に告げた通りに!)。
『神の指』の著者アルブレヒト・ウェーバー氏は、1963年にガラバンダルに関わり、コンチータと親しくなりました。1965年11月14日、ガラバンダルにおける聖母の出現の最後の翌日、ウェーバー氏はコンチータの母親の立ち会いのもと、コンチータの自宅で彼女にインタビューを行いました。ウェーバー氏には通訳も同席しました。そのインタビューの中で、コンチータが、教皇ヨハネ二十三世が亡くなったまさにその日に、「あと三人の教皇が現れ、それから『時の終わり』が訪れる」と話したこと(「時の終わり」とは、「世の終わり」を意味するのではない)について、母がコンチータにいくつかの質問をしたことが明らかになりました。
母の質問の一つに対して、コンチータは、聖母は実際には「あと四人の教皇が現れる」と言われたが、そのうちの一人は数に入れておられなかったと答えました。コンチータの母がそれを聞いた時、母は誤った解釈や多くの噂話が流れることを恐れ、コンチータにそれを繰り返さないように厳しく禁じました。教皇の一人が偽者であるとか、悪い人物であるなどと誤って信じる人々がいるかもしれません。母との会話の中で、コンチータはまた、教皇の一人の在位期間は非常に短いだろうと聖母が言われたと述べました。
コンチータ「ローマには、教会に過剰な圧力をかけようとする人々がいます。私は、そのままにしておいて、自分たちにできることをするのがよいと信じています。聖母のメッセージについて語るよう努めるべきですが、それ以外のことは神の手に委ねるべきです」
主ご自身が私に言われました。「彼らがあなたを信じるかどうかは心配しないように、特にローマについては。私がすべてを行う」。これが、ローマや司教様にもっと(ガラバンダルの出現について)前進してほしいと望むすべての人たちに私が申し上げたいことです。
コンチータが1981年8月27日にニューヨークで行ったフランシスコ・ガルメンディア補佐司教とのインタビューより。『ガラバンダル・ジャーナル』2004年3月-4月号に転載。
「その日も特別なことは何もなかったのを覚えています。私たちはたわいもない話をしていました。私は母の前にあるソファに座っていて、妹のメラニーはドアの枠に立っていました。その時、母の頭が急に上がり、かすかなため息をつき、はっと息を飲んで、まるで何かに気づかされたかのように目を見開きました。そして、まるでその出来事を考えたことがなかったかのような驚きの表情で、私に言いました。
『聖母が、私に幼子イエスを抱かせてくださり、王冠を持たせてくださったなんて信じられる?』
母の目が私と合ったとき、私は唖然としました。それからしばらくして、彼女は少しリラックスしたように見えました。
彼女は今起こったことを恥ずかしがっていたようだったので、私はそれ以上問い詰めませんでした。母が再び私に出現の話をするのは、それから数カ月後のことでした。
この時点で母の病気はかなり進行しており、信じられないほどの痛みに襲われ、ベッドに横たわっていました。亡くなるまであと三週間ほどでした。この時、母は私の手の上に手を置き、私の目を見て尋ねました。
『聖母はどうして、私に幼子イエスを抱かせてくださり、王冠を持たせてくださったと思う?』
マリ・ロリの 「疑いの雲」は取り除かれ、マリ・ロリは生前に自分の身に起こったことを思い出し、確信を持って信じていたのです。これを理解することによって、この知識がガラバンダルの聖母のメッセージへの信仰を強めるという恩恵を誰かの心にもたらすかもしれません。ですから母のこの言葉を分かち合いたいと思います」
──マリア・ロザーティ(マリ・ロリの娘)
パラディーノ神父(サン・ジョバンニ・ロトンドの修道士の一人)は、ピオ神父に毎日何回ロザリオを唱えているか尋ねたと報告している。答えはこうだった。「大体30環ともう少し、それより少ないことはありません」
「どうしたらそんなことができるのですか?」
「夜中に何か他にすることがありますか?」
別の時に、ピオ神父は三つのことを同時にこなしていることを認めた。「祈ること、ゆるしの秘跡を聞くこと、世界中を歩き回ること」
もう一人の修道士の一人であるマルチェリーノ・ラセンザニロ神父は、朝にピオ神父の手を洗うのを手伝っていた時、ピオ神父がロザリオを置こうとしないので、片手ずつしか洗えなかったと語った。
パレンテ神父は、なぜ他の祈りではなく、そんなにたくさんロザリオを唱えるのかと尋ねた。ピオ神父は、ロザリオによって求められた恵みを聖母が拒まれたことは一度もなかったと告げた。
聖母ご自身がピオ神父に言われました、「この武器によってあなたは勝利するでしょう」。ロザリオの力を確信していたピオ神父は、いつもロザリオを手にしていた。自身の死期が近づいたとき、彼は霊的な子どもたちにロザリオを勧めて言った。「聖母を愛し、聖母に愛されなさい。いつもロザリオを唱えなさい」
ピオ神父は夜、いつもロザリオを腕に巻いていた。死の数日前、ピオ神父がベッドに入ろうとしたとき、部屋にいた修道士たちにこう言った。「私の武器をくれ!」すると修道士たちは驚き、不思議に思って彼に尋ねた。「どこに武器があるんですか? 何もありません!」 ピオ神父は答えた。「それは、あなたが今かけた私の修道服の中にある!」修道服のポケットを調べた後、修道士たちは彼に言った。「神父様、あなたの服の中には武器はありません! ……ロザリオの珠しか見当たりません!」。ピオ神父は直ちに言った。「では、これは武器ではないのか? ……まことの武器では?!」
死の間際、ピオ神父はコンチータに手袋と通夜のベール、そして彼のロザリオを遺した!
世界中のすべての人々の中で、彼はコンチータを選び、彼女を信じた。
このことは私にとって多くを物語っている!
(グレン・ハドソン)
1993年4月11日、コンチータの兄セラフィン・ゴンザレスのインタビュー
質問:「聖母は少女たちにファッションについて何と言われましたか?」
セラフィン:「聖母は、流行は人々を地獄に引きずり込みます、救われたいのなら、品行方正で慎み深い服装をしなさいと言われました。これが彼女の言葉でした。これは(ファッションにおいて)至る所で起こってきた災難を思えば、当時よりも、今(1993年)の方がずっと意味があります。当時はあまり理解できませんでしたが、今では理解できます」
『ガラバンダル』マガジン、1993年7-9月号