グスタボ・モレロス神父のインタビュー「私たちは今、奇跡が4月に起こると知っています」

「ザ・ヴィジル」誌 1988年1月〜4月号より

マリア・C・サラコはイタリア語の方言を話すことができ、1986年5月の一ヶ月間、イタリアに滞在しました。スライドによるプレゼンテーションを行いつつ、大都市から小さな村まで、シチリア中を回ったのです。何千もの茶色のスカプラリオ、ロザリオ、パンフレットが無料で配布されました。彼女の講話の手配に尽力したすべての司祭、修道女、信徒には、イタリア語の本や小冊子も無償で配布されました。ガラバンダルの聖母のメッセージを目撃したマリアの講話は見事な成功を収め、すべての人々に大きな喜びと熱意をもって受け止められました。

スライド・プレゼンテーションをするマリア・サラコ

マリアが現地で拠点としたサン・カタルドのアンジェリーナ・ロンバルディ夫人には、大きな感謝を捧げなければなりません。アンジェリーナは高齢の未亡人で、ほとんど目が見えず、一人暮らしでとても質素な生活をしていますが、マリアを快く家に受け入れ、日々の糧を分け与えてくれました。聖母のメッセージを伝えるために、揺るぎない意志を持ち続けるアンジェリーナを、どうかあなたの祈りの中で覚えていてください。聖母が彼女に、多くの恵みによって大きく報いるであろうことは疑いありません。

ローマ滞在中の(1986年)5月6日、マリアはグスタボ・モレロス神父に面会し、インタビューを行いました。神父はメキシコ人で、28年前に司祭に叙階されました。神父は「神の御旨の息子たち*」の設立者です。彼は1965年にガラバンダルに滞在し、自身の上長である司教の許可を得て、三ヶ月間、ガラバンダルの出現を本格的に調査しました。モレロス神父はピオ神父と個人的に親しい友人であり、ガラバンダルのカルメル山の聖母を南米全域に紹介するための責任者でした。

*ルイザ・ピッカレータの霊性に基づく観想修道会

グスタボ・モレロス神父

Q.神父様、ガラバンダルの出現のことを初めて聞いたのはいつですか?
A.初めてガラバンダルのことを聞いたのは1965年のことです。私はメキシコにいました。私の教え子だった新聞記者が、ガラバンダルの出現に関する資料がスペインから届いたと教えてくれたのです。彼は私にその資料を全部渡し、その晩それを読みました。とても興味深い内容でした。ぜひ行ってみたいと彼に言いました。すると彼は、その年の1月にコンチータに与えられた預言で、6月18日に出現が起こることになっていると教えてくれました。そこで、現地に行くための準備をすべて整えたのですが、間に合うように行くことはできませんでした。行くことができたのは最短で8月でした。大天使ミカエルの出現がすでに起こっていたので、コンチータはすべての情報を私に伝えてくれました。私は三ヶ月間滞在して出現を調査しました。それが天使の最後の出現でした。聖母は大天使ミカエルを通して、「間違った道を歩んでいる多くの司祭たちがおり、多くの魂を一緒に道連れにしていると……非難されています」と言われた、とコンチータは言いました。私はコンチータに、それは本当に聖母が言われたメッセージ通りなのかと尋ねると、彼女は「いいえ」と答えたのです*。そして彼女は私を脇に座らせ、X神父(編注、この時点では司祭個人を特定できないよう、慎重を期して架空の頭文字「X」を使用したい)がそう言うように自分に言った、なぜなら本当のメッセージが伝えられると全世界を憤慨させることになるから、と言ったのです。大天使を通して祝された御母が言われたのは、「多くの枢機卿、司教、司祭が滅びの道を歩んでおり、多くの魂を道連れにしている」というものでした。そこで私はコンチータを正そうとしました。メッセージは与えられた通りに言うのが彼女の義務であり、絶対の責任であると言いましたが、彼女はX神父がそう言うように言ったのですと答えました。

*訳注 コンチータはX神父の指示によって「枢機卿、司教」を省略し、「滅びの道を歩んでいる」という言葉も避けている。当時のスペインを知る人によれば、高位の聖職者をあからさまに非難するこのような言葉を公に発言するのは、相当に困難なことであったようだ。またこれが少女たちに対する厳しい迫害へとつながったことも容易に想像がつく。

私はコンチータの母親のアニセタに、コンチータに与えられた 「本当の」メッセージを正確に伝えるように説得してほしいと言いました。その後、X神父がこの件を私に知らせたので、私たちはこのことで大喧嘩をしました。私はX神父に「聖母がどんなメッセージを伝えようと自由であり、『メッセージ』は与えられたとおりに伝えるべきだ」と言いました。ですがコンチータは、「言うべきことはすべて言いましたし、それはすでに私が言った通りです」と言ったのです*。そこで私は彼らに、自分は聖母が伝えたとおりの言葉で『メッセージ』を伝えるつもりだ、それは「多くの枢機卿、司教、司祭は滅びの道を歩んでおり、多くの魂を道連れにしようとしています」だと。

*編注 コンチータは「枢機卿や司教も司祭です」という理屈で弁明した。

メキシコにいたとき、私はすぐに、出現が真実であることを告げる特別な照らしを感じました。それで私はスペインに行ったのです。もちろん、司教の許可を得てです。そして、私は変わってません。決して変わりません! これは絶対に神からのものだと確信しています! もちろん、教会の最終的な決定を常に尊重しますが……私の信仰の感覚では、これは神から来るものだと確信しています。

Q.スペイン滞在中に、4人の子どもたち全員と話をしましたか?
A.はい、しました。三ヶ月滞在して、女の子たちと話しました。その時、彼女たちは何も隠しませんでした。細かいことまで自由に話してくれました。また、別の町から来たラモン・ガルシア・デ・ラ・リバ神父とも話をしました。彼は多くの出現に立ち会いました。それと、名前を思い出せないのですが、イエズス会の神父とも話をしました。彼もまた非常に学識豊かで、知識がとても豊富でした。この神父は、これは本当に神からのものだと言いました。神父は出現にも立ち会ったのですが、幻視者たちを試した結果、そう判断したそうです。最も説得力があったのは、近くの町の教会の司祭の一人であったラモン・ガルシア・デ・ラ・リバ神父の証言でした。ご存知のように、聖母は二千回以上も出現されましたが、彼はその出現の多くに立ち会っていたからです。聖母は1961年から1965年までの4年間のうち、初めの頃にはほとんど毎日、時には一日に一回、二回、三回……時には5回も出現されたのです。出現が公にされない時期もありました。時々、夜中や真夜中に出現されることもありました。

ゴンザレス家。右がセラフィン、次にコンチータ、真ん中が母アニセタ

Q.脱魂状態の子どもたちが、地面に足をつけずに、教会の前で腕を組んで歩いたことを知っていますか?
A.宙に浮いているようでしたが、でも歩いていたのです。町の若者や兄弟姉妹が追いかけようとしましたが、追いつけませんでした。走っているわけではなく、普通に歩いているのです……でも、滑っているような、宙に浮いているような感じで、追いつくのはほとんど不可能です。コンチータの長兄のセラフィンによれば、ある時、彼女は松林で一人で脱魂状態に陥ったそうです。松林から300~500メートル離れた家に帰って来た時、膝をついたまま、後ろ向きに動いて帰ってきたというのです。丘からたくさんの石が落ちてくるので、コンチータの兄は神に祈り求めたことを思い出します。「神はなぜ、コンチータにひざまずかせることをお許しになるのか……あんなふうに動いたら、岩のせいで膝を痛めるかもしれないのに?」彼は考えました。「彼女は本当に膝をすりむき、台無しにするつもりだ」。ところが驚いたことに、彼女は立ち上がり、膝のほこりを払って家の中に入っていったのです。兄は言いました。「自分の目を疑いましたよ! コンチータは膝を痛めることもなく、かすり傷一つなかったんです!」と。コンチータの兄は完全に確信しています。彼はこう言いました。「神父様、これが神からのものではないと私に納得させることは誰にもできません。これは神からのものに違いありません、なぜなら私自身がこれが起こるのを見たからです。誰かが私にそう言ったわけではありません」。

他にもいろいろな形での脱魂があり、非常に顕著なものでした。しかし私を完全に確信させたのは、外見的な部分ではありません。すべてです。この子どもたちの証言、彼らの行動を熟考してのことです。なぜなら、出現が起こっている間、子どもたちの振る舞いは非常に良かったですし、ミサ聖祭での奉仕、聖体の拝領の仕方、両親への従順、言い換えれば……彼らのすべての行動が非常に良かったからです。この町ですら、一般的に言って、私が来た当初は模範的な町でした。その後、興味本位の観光客が来るようになると、少し変わり始めました。とはいえ、1965年にあそこに行って、ガラバンダルの素朴さと、誰もが出現を信じていた「模範的」な町を体験できたのは、とても幸運でした。

Q.1965年11月の聖母の最後の出現のとき、あなたはそこにいましたか?
A.いいえ。私が帰る際に、次の出現があるかどうかコンチータに尋ねると、彼女も知らないと言いました。そこで私は、聖母への5つの質問を書いた紙を、聖母に渡すロザリオと一緒に彼女に託しました。もし聖母が来られたら、その5つの質問をし、私のロザリオに口づけていただくようにコンチータに言いました。11月にメキシコに帰ると、コンチータからの手紙が待っており、こう書いてありました。「松林で聖母の出現を受けたので、ロザリオに口づけをしてもらい、神父様が望まれていた5つの質問もしました。このロザリオがグスタボ神父のためのものであることを聖母に告げると、聖母は微笑んでロザリオに接吻されました」……これがそれです、いつも持ち歩いています……このロザリオです*。コンチータは私に、これをずっと持っていてくださいと言いました、なぜなら聖母は「このロザリオによって、イエスは約束された奇跡の前にも、後にも、奇跡を行われます」と。私が南米のペルーにいた時、事故に遭った少年を助けることができました。医者たちは彼はたぶん死ぬだろうと考えましたが、8日ほどで少年は回復して元気になったのです。この他にも、聖母が口づけられたこのロザリオは、聖母が約束されたとおり奇跡を起こすと私に確信させた例がいくつかあります**。

*編注 この時神父は、私(マリア・サラコ)にロザリオを見せ、それを崇敬させていただいた。
**編注 聖母がガラバンダルで口づけられた多くの品々には、癒しの約束がつけられている。実際、聖母は、それらを他の人々に配るようにと言われた。聖母は次のことも約束された。「信仰と確信をもってそれらを身につける者はすべて、地上で煉獄での清め、つまり、通常は死後に行わなければならない煉獄の清めを行うことになります」。

Q.ガラバンダルにいた期間に、出現はありましたか?
A.いいえ、ありませんでした。私がいた三ヶ月の間、一度もありませんでした。

Q.神父様、「悲鳴の夜」に居合わせた人たちと話をしましたか?
A.はい、全員と話をしました。まず、子どもたちの両親と話し、その後、話せる限り多くの人と話しました。全員に話を聞きました。そこで何が起こったのか、本当のことを知りたかったからです。どのみち、私が現地に赴いた理由はそれなのですから。状況を調査したかったのです。そして、私が一番聞きたかったのは、「悲鳴の夜」の脱魂についてでした。その夜、聖母は少女たちに「松林まで一人で来るように」言われたのですが、夕方前には町中の人が知っていたので、皆が彼女たちの後に付いて行きました。ある時点で、少女たちが言いました。「ここから先は通れません」。それ以降は、誰も付いてくることができなくなってしまいました。まるで強い力で押し戻されたかのように。ところが少女たちは自力で「松林」まで行くことができました。彼女たちが「ここから先は通れません」と言った場所を、誰も通れなくなってしまったからです。その直後、彼女たちは非常に大きな、慟哭のような叫びを上げはじめました。悲しみというか、一種の「恐怖」のような叫び声です。それは恐ろしい何かでした。人々はその叫び声にとても心を動かされ、翌日には全員が……町中の人々が告解と聖体拝領に行きました。子どもたちは私に話しかけ、私が尋ねる質問にはすべて答えてくれました*。

*編注 幻視者たちは「条件付きの」罰を見せられた。

初めて町に着いた時、私は司祭であることが知られないように、普通の若者の格好をして行きました。ところが、マリア・ドロレス*の家の前に着いて友人に会って話し始めたら、マリア・ドロレスのお兄さんが……彼女はきっと覚えていると思いますが……私のところに来て、「あなたは神父さんですね」と言ったんです。私は「いいえ、違います」と答えると、彼は「いいえ、あなたは司祭です」と言うのです……私は「いいえ、結婚もしています」と答えました。ロリはクスクス笑っていて、お兄さんが「違うよ、あなたは神父だよ、妹から聞いたよ」と言いました。そこで私は振り返って、ロリにこう尋ねたんです。「どうしてそれを知っているんですか? 私が司祭だと? 私のことを知りもしないのに!」すると彼女は笑い出しました。ロリは特別な方法で私の状況を知ったのだとしか説明のしようがありません。ロリはこのことを覚えているでしょう。もちろん、ロリが私が司祭であることを知っていたことにとても驚きました、私はそこでは誰にも知られないように平信徒に変装していたのですから。

*編注 マリア・ドロレスはマリ・ロリあるいはロリとも呼ばれる。

私は子どもたち全員と話をしましたが、ほとんどの場合はコンチータとでした。夕食後、コンチータと一緒に遊んで、夜の10時か11時まで話をしたものです。その時、彼女は何でも話してくれました。私が質問すると、何でも答えてくれました。

コンチータは、いつの日か、彼女たちがすべてを否定する日が来ると聖母が言われた、と言いました。彼女は「わからない……どうしてそんなことがありえるのかわかりません……私たちは決してそんなことはしないわ。私は本当にこのすべてを生きてきたのだから、どんなことも、決して否定することはできないわ!」と言っていました。コンチータは、真実をすべて話すためなら、極限の苦しみに至ることさえいとわないとよく言っていました。言うまでもありませんが、一年か二年経って彼女に会うと、彼女はすべてを否定してしまいました*。コンチータは、ある意味では聖母が予告された通り、すべてを押し殺していたのです。

*訳注 よく知られている通り、この時期、コンチータは圧力を受け、出現を否定するように強制されていた。ある意味では、教会当局の命令に従順に従ったのである。

左がバリオのガルシア神父、コンチータの自宅前で

一年後、私はバリオのガルシア・デ・ラ・リバ神父を訪ねて、一ヶ月間そこに滞在しました。ロリ、ハシンタ、マリウカの三人の少女が、三日間の黙想会に参加してくれました*。この時、私はマリ・ロリに、聖母が彼女たちに話した「大きな罰」とは何か、彼女たちがなぜ泣き叫んだのかを教えてくれるかどうか試しました。マリ・ロリは「言えない」と言いましたが、私がしつこく聞き続けると、「言えない、言えない」と繰り返しました。ついに私は、「聖堂に行って、そこで私に教えるかどうか決めなさい」と言いました。一時間ほど聖堂にいた彼女は、手にカードを持って出てきました。彼女はそれを私に渡して逃げていきました。そのカードには「COMMUNISM(共産主義)」と書かれていました。私はそこで「COMMUNISM」という文字を眺めながらこう考えました。「これでは何も分からない」。後でロリに言いました。「これを説明してもらわないと」。すると彼女は言いました。「聖母は、共産主義がどのように教会に入り込むかを示されました。これが『大いなる罰』です。その結果を見たとき、これが私たちを泣かせたのです」。

*編注 この黙想会は、当時彼女たちが通っていた学校全体のためのものだった。マリウカは幻視者ではなく、ロリの姉である。

Q.マリ・クルスと話をしましたか?
A.はい、でもそのころの彼女はとても控えめで、両親が多くの問題を引き起こした*ために屈辱を感じており、そのせいで話すことを恐れていました。それでも1965年に、彼女は聖母を見たと言いましたが、両親が何度も彼女を家から出さないようにしたので、彼女への出現は止まっていました。

*訳注 マリ・クルスの両親はあまり信仰が篤くなかったために、マリ・クルスが出現のために自由に行動したり話したりすることを厳しく制限した。このためか、マリ・クルスは4人の中で最も目立たず、公にも発言してこなかったが、2019年刊行のホセ・ルイス・サアベドラ神父著『Garabandal Mensaje de Esperanza ガラバンダル・希望のメッセージ』の巻頭で、50年ぶりに公にコメントを出した。

Q.ハシンタは?
A.話しました。ハシンタは母親と父親のことを何でも話してくれました。彼女の父親は聖母の話をすると、感動してよく泣いていました。とても善い人でした。ハシンタがある時、イエスの聖心を見たことを話してくれました。聖心の幻を見たのは彼女だけでした。

Q.コンチータはあなたに何か特別なことを明かしたことがありますか?
A.ええ、彼女は私に、もし奇跡の日を当てることができたら教えてあげますと言っていたので、私はその日を当てようとしたのですが、一度も当てられませんでした。私が日付を言うたびに、「いいえ、違うわ」と言うのです。ある時彼女は「当てるのを手伝ってあげます。2月から7月の間、7日から17日の間です。でも、何年かは言わないわ」と言いました。彼女は「奇跡が5月に起こることはありません」と断言しました。私はこの件をコンチータと話しながら、その日を当てることを楽しみました*。

*編注 現在では、奇跡は4月に起こることが分かっている。もちろん、正確な日付と年はコンチータだけが知っていて、彼女はその8日前に発表することになっている。だが、ハリー・デイリー著『ガラバンダルの奇跡』の89ページには、コンチータが「それ(奇跡)は4月か5月に起こると言っておきます」と述べている。彼女は1965年当時、奇跡は5月には起こらないとモレロス神父に断言していたので、奇跡の起こる月は4月だと判断して間違いないだろう。私(マリア・サラコ)は1988年4月25日に、これらの詳細についてコンチータと電話で話したが、彼女はモレロス神父とハリー・デイリーに話したことを覚えていないし、ハリーの本は読んでいないとコメントしたが、これらの内容を否定することはしなかったし、奇跡の月が4月であることも否定しなかった。私は、それは事実ではないと彼女が言わない限り、この情報を『ザ・ヴィジル』に掲載するつもりだと指摘したが、彼女は否定せず、むしろ「あなたがしたいようにすればいい」と答えた。

Q.コンチータは、「奇跡」は聖体と関係のある聖人の祝日に起こると言っています。このことについて、彼女はあなたにさらに何か言いましたか?
A.はい、聖体にとても献身した聖人の祝日と同じ日です。また、「奇跡」の日は教会の重要な行事の日と重なると言っていました。最初はバチカン公会議のことかと思ったのですが、彼女は「違います」と言いました。彼女は他の時にも、教会内での大きな行事の日だと言いました。

Q.世界大戦が再び起こるかどうかについて聖母が話されたか、コンチータが言及したことがありますか?
A.彼女たちに尋ねましたが、聖母が戦争について言及したことはないと言いました。聖母は「警告」について、「私たちの肉体は焼かない火のような」罰のようなものだと彼女たちに言われました。私たちは不安に満たされ、この試練を通り抜けるくらいなら、むしろ死ぬ方を望むでしょうと。

少女たちは、聖母が大きな「罰」について語られたといいます。「人々はこのために大きな苦しみを味わうでしょう。あらゆる所が火に包まれます。人々は絶望して海に身を投じますが、水の中ではもっと燃えているように見えます」。そこで少女たちは聖母に尋ねました。「(ガラバンダルの)子どもたちはどうなるのですか? 彼らに何が起こるのでしょう?」聖母は答えられました。「その時には、もう子どもは残っていないでしょう」***。

*編注 この記事を参照。
**編注 「大いなる罰」は条件付きのものである。より詳細な説明はこちら
***編注 村の子どもたちはその時、みんな大人になっているという意味。

Q.コンチータは、聖母が二度と世界大戦が起こらないと言ったかどうか、あなたに話したことがありますか?
A.私が戦争について尋ねると、彼女たちはこう言いました。「聖母は次の戦争について話されたことはありません。聖母はいつも『警告』『奇跡』『罰』について話されましたが、戦争という形では話されませんでした」と*。

*訳注 マリア・サラコがこの質問で意図しているのは、1962年のキューバ危機の際に、コンチータが「第三次世界大戦は起こりません」という聖母の言葉を聞いたというエピソードを、モレロス神父がコンチータから聞いたかどうかを確認しようというものであることは明白である。ところが神父の答えは質問の意図とは少し論点がずれていて、少女たちは「聖母は次の戦争については話されず、『警告』『奇跡』『罰』についてだけ話された」と言ったという内容になっているので、モレロス神父は特に第三次世界大戦の有無についてはコンチータからは聞いていなかったと考えられる。

Q.神父様、彼女たちは 「警告」についてどのように言いましたか?
A.「警告」は全世界で、予期していない時に起こりますが、恐怖で死ぬことがあるとしても、警告のために死ぬことはないと言っていました。

Q.子どもたちのうち、誰がそのことを話したのですか?
A.三人ともです……ハシンタ、ロリ、コンチータ。でも、コンチータはもっと詳しく話してくれました。他の子たちは、「罰」に関しては特定のことしか話しませんでした。コンチータの方がより詳しかったのです。

Q.ところで、聖母が世界に与えられた最初のメッセージについてですが……その中で「杯は満たされつつあります……」と言われましたが、最後のメッセージの一部ではこう言われています。「杯はあふれています……」神父様はこれをどう解釈されるか、説明していただけますか?
A.はい。とても分かりやすいと考えます。一つは、「杯は満たされつつある」もう一つは……「それはすでにあふれています」ですね。それは、悪がいたるところで拡大していることを意味していました。例えば、私がラテンアメリカ、アルゼンチン、チリ、エクアドル、パナマへ旅行し、ガラバンダルのことを話し始めた時、私がメッセージについて話すと、特に「多くの枢機卿、司教、司祭は……」というくだりを話すと、人々は憤慨しました。ところが3、4年後、すでに多くの司教、枢機卿、司祭が教会を去ったか、スキャンダルを起こしたと聞いて、この同じ人々が、メッセージがいかに真実であるかを認めることになったのでした。聖母がメッセージの中でこれらの事実を明らかにしていたからこそ、あれほど人里離れた山奥に住んでいた少女たちが予告することができたのです。

Q.最初にサンタンデールに行った時、司教を訪ねましたか?
A.いいえ。司教様は出現に反対していると知っていたので、一度も会いませんでした。ですが、彼がガラバンダルに行くと約束した時、私もそこ(スペイン)にいましたので、彼に会うためにそこに行きました。私たちは皆、彼を待っていました。彼は「戦没者の谷*」でミサを行う予定でしたが、戻ってくる時に自動車事故で亡くなってしまったために、会うことができなかったのです。

*編注「戦没者の谷」はマドリード郊外にあるスペインの戦没者を追悼する特別な記念碑。

Q.プチョル司教様のことですか?
A.そうです、事故で亡くなった方です。

Q.はい、知っています……プチョル司教様ですね?
A.はい、私たちは皆、司教様を待っていたのですが、司教様が事故に遭い、亡くなってしまったと知らされたのです*。

*編注 ビンセンテ・プチョル・モンティス司教は1965年8月15日に司教に叙階され、二日後にサンタンデール教区に配属された。聖母の出現以来、三人目の司教であった。1967年5月8日に亡くなられた。

Q.ガラバンダルから帰ってきた時、メキシコシティの司教に報告しましたか? 何を話しましたか?
A.司教様に、これらの出現を調査し、その真正性を強く確信していると伝えました。司教様は大変驚かれましたが、何もコメントされませんでした。それから私は、この現象についてとても熱心に講話をするようになりました。ところが一年後、司教様はこれを続けることを禁じました。そこで、ハラパの大司教であるマヌエル・ピオ・ロペス大司教様に相談に行ったのです。大司教様は「私の教区に来なさい、出現について、全世界に語ることを許可します」と言われました。……実は、私はメキシコシティ教区に配属されていたわけではなかったので、ハラパに行きました……滞在司祭として働いていただけだったのです。メキシコシティの司教様には、別の教区に移ることを通知しました。ハラパに行くと、大司教様はガラバンダルについて話すことを承認する手紙をくださいました。そしてそこから、南米や米国、カナダに行きました。

Q.「これは間違いなく、あなたをとても苦しめることになる」とあなたに言ったのは、メキシコシティの司教ではありませんでしたか?
A.そうですね、確かに、そう言われたのはピオ・ロペス司教様でした。サルティーヨのもう一人の司教、ギサール司教様は、私にガラバンダルの宣伝を認可する手紙をくださいましたが。

Q.素晴らしいですね!
A.私は今「警告」を待っています。「警告」の後、私は奇跡がいつ起こるかを言うことができるでしょう。なぜかと言うと、コンチータが私にこう言ったからです。「神父様、心配しないでください。あなたは最初に知る人々の一人になるでしょうから」。そこで彼女に言いました。「あなたがどこかにいて、私が別の場所にいるなら、どうやってそれを知るんですか?」とね。すると彼女は「そうだとしても、神父様にも届くような方法で、奇跡が起こるという知らせが届くでしょう。でも、警告が起きるまで心配しないでください」と言われました。ですから私は「警告」を待っているのです。「警告」が今まで以上に近づいていると感じているからです。

コンチータのお母さんは、コンチータが聖母にこう話しているのを聞いたのを覚えていると教えてくれました。

1)奇跡の前に道路が整備されること*。2)外部の司祭が何の制約もなく村の教会でミサを行うことができるようになること**。これらの預言が成就したら、奇跡が近いことを示す最高のしるしとなるに違いありません。

*編注 出現が始まるまでの長い間、ガラバンダルからコシオまで続く3マイルの道はまったく未整備の状態であった。コシオは山地から下の一番近い村である。作業員たちは、この道路をきちんとした安全な道路に作り変えようとしていた。その作業は延々と続いていて、終わりがないように思われた。ガラバンダル村は完全な行き止まりなので、この道路が完成することなど誰も期待していないように思われた。ところがスペイン政府の予算によって、道路には砂利が敷き詰められ、バスがすれ違うことができるほど広くなった。聖母は約束された。「奇跡が起こる前に、この道路は整備されるでしょう」

**編注 1972年1月にサンタンデール教区の司教に配属されたフアン・アントニオ・デル・バル・ガロ司教猊下は、(出現後)5番目の司教である。彼は1987年12月に地元のテレビ番組にゲスト出演している。そのとき、村の教会で外部の司祭がミサを行うことについて、何か禁止事項があるかという質問に対して、ミサの中で出現について説教しない限り、司祭は特別な許可なしに、誰でもそこでミサ聖祭を執り行うことができるようになったと述べた。聖母は約束された。「奇跡の前に、その時の司教が誰であれ、ガラバンダルの真実について個人的な証拠を受け取るでしょう。禁止は解かれ、誰でも、司祭であっても、奇跡の日にはガラバンダルまで自由に上ることができるようになります」

Q.聖母が司祭たちについて話されたとき、少女たち、特にマリ・ロリがたくさん泣いたという話を何度も聞きました。
A.そうです、聖母は司祭たちのことを嘆いておられました。聖母は時々、特定の司祭たちが道を外れていることを少女たちに明らかにし、本人たちに伝えるために、幻視者たちにメッセージを与えられました。メッセージを伝えた後、子どもたちは秘密を守り、後に子どもたちはそれを忘れてしまいました。聖母の嘆きは、道を外れた多くの司祭のせいでした。聖母は、世界に最後のメッセージを届けるために自分が来なかったのは、それが聖母をとても「悲しませる」からだったとコンチータに言いました。代わりに、聖母は大天使ミカエルを遣わしたのです。

Q.ところで、ルイス・アンドレウ神父が聖母を見たという事実を見ると、聖母は司祭に対して大きな愛を持っておられるように私には思われます、なぜなら4人の少女を除けば、彼は聖母を見た唯一の人であり、司祭なのですから。彼は『奇跡』を前もって見るという特権も与えられました。彼女たちはルイス神父について何か言いましたか?
A.ルイス神父がどのような形で聖母を見たのか、聖母と対話したのか、彼は何もコメントしなかったのでよく分かりませんが……少女たちは彼が『奇跡』の日に起こるものを見たと言っているようです。

Q.彼は「私たちは天になんと甘美で素晴らしい母を持っているのだろう」と言いました。
A.はい、確かにそのような表現をしていましたし、「私の人生で一番幸せな日だった」とも言っていました。人々は彼に、「あなたの人生で最も幸せな日は、叙階の日なのではないですか?」と尋ねたのです。彼の答えは「そうです、でもこれはさらにもっと美しい」というものでした。しかし、具体的な結論が出せないようなことも言っていました*。

*編注 ルイス・マリア・アンドレウ・ロダミランス神父は38歳のイエズス会司祭で、ガラバンダルを訪れた二度目の時、4人の幻視者と同時に聖母を見た唯一の人物となった。彼がこう言うのが聞かれたという。「奇跡! 奇跡! 奇跡! 奇跡だ!」聖母は子どもたちに、ルイス神父は聖母と共に奇跡を見ていますと告げられた。聖母はルイス神父に言われた。「あなたはもうすぐ私と一緒になります」。それから12時間足らず、 1961年8月9日に彼は亡くなった。完全な喜びのために。それ以外の理由は見当たらない。聖母は約束された。「奇跡の翌日、彼の体は腐敗していないことが発見されるでしょう」。ルイス神父についてのより詳しい説明は『ザ・ヴィジル』1984年5月〜8月号を参照のこと。

Q.神父様は生前のピオ神父を何度も訪問していることを知りました。最初に彼を訪ねたのは何年ですか?
A.最初の訪問は1957年です。

Q.では、それはガラバンダルの話を聞く前のことですね?
A.子どもの頃、メキシコに住んでいて、聖人である司祭の話を聞き、とても感銘を受けました。1957年、ローマで司祭になるための勉強をしていた時、私はある問題に直面しました……当時、私は哲学を学んでいました。その時、とても深刻な個人的問題を抱えていました。私はよく、「この問題を解決してくれる聖人が必要だ」と自分自身に言っていました。大学の教授たちにも相談したのですが、なかなか納得できませんでした。そこで、第二次世界大戦末期に空から現れたというある神父のことを調べて、ピオ神父を探すようになったのです。「アメリカ兵を押し戻したのは彼の取り次ぎのおかげだ」と。そして彼らは「そうです、その人の名はピオ神父です」と答えたのです。こうして私はようやく彼の居場所を突き止め、彼と話し、私の問題を解決する答えを見つけることができたのです。私は彼の霊的子供になれるかどうか尋ねたところ、彼は受け入れてくれました。それで、時間があるたびに、彼と話をするようになったのです……こうして彼のことを知るようになりました。ガラバンダルのことを知ったのは、その後、メキシコシティにいた時です。

Q.ガラバンダルの出現について、ピオ神父に尋ねたことがありますか?
A.いいえ、私はすでに確信していたので、確認する必要はありませんでしたが、私がピオ神父を訪ねる途中であることを知ったコンチータが、「これからピオ神父様のところに行くのでしたら、私のためにたくさん祈ってくれるよう頼んでください」と言ったのです。そこで私はピオ神父に、幻視者たちの写真や、ガラバンダルで聖母が立っておられた松林から取られた木などを祝福してくれるようお願いしました。私は彼の反応をはっきりと見ることができました。彼はすべてを見て、それらを祝福したのです。ピオ神父が偽物を見たら、それは偽物だと教えてくれるでしょう……この時はただ微笑んでいました。彼は1966年1月にすでにコンチータに会い、歓迎して、とても楽しい会話をしていました。

Q.ところで、こちらの共同体の名前は何ですか?
A.「Hijos de la Divina Voluntad 神の御旨の息子たち」です。

Q.あなたが修道院長なのですか?
A.そうですね、私が「一番古い」兄弟だと言っておきましょう。

Q.司祭になって何年になられますか?
A. 昨年、25周年を迎えました。

Q.こちらの修道会に所属する司祭は何人ですか?
A.5人の司祭と二人の助祭です。

神のしもべ、ルイス・マリア・マルティネス司教

Q.この修道会はあなたが設立したのですか?
A.ええ、そうですね。私がローマで勉強を始めたとき、ルイス・マリア・マルティネス司教様*が修道会設立の目的で私をローマに派遣されました。彼は私に言いました。「ローマに行って、教会の光の中で勉強し、この仕事が神から出たものかどうか確かめるのが良いでしょう」と。司教様は私がこの仕事を続ける上で最も助けになった人の一人で、もう一人は、聖痕を持つある女性です。彼女はこの仕事の成功のために自分の命を捧げました。神学部の一年生のとき、彼女は私に、イエスの聖心にとって大きな慰めとなるこの仕事をするように言ってくれました。また、この仕事は私に多くの苦しみを与えるだろうとも言いました。私は前に進み続けましたが、この仕事を行っているのは神であられることもわかりました。私はあまり多くのことはしていません。助けるというより、むしろ邪魔をしてきました。神がすべてを成し遂げてくださったのです。

*訳注 聖人であったため、ローマで列聖調査が始まっている。2022年現在「神のしもべ」の称号を与えられている。

Q.この共同体は現在、教区の仕事をしているのですか?
A.いいえ。私は必要があってこの小教区にいるだけです。ですが、私たちは観想修道会です。私たちの規約には、教区は持たないと明記されています。私たちは黙想生活と霊的指導に専念し、告解と霊的訓練によって魂を導くことを目的としています。ある事情があって私はここにいるのですが、自分には場違いな感じがしています。

Q.米国で設立されたグループは何をするのですか?
A.私たちがやっていることと同じです……「神の御旨」を生きることです。一度「神の御旨」の生活に入った人は、他のことは何も知りたくなくなります。神がこの業に呼ばれている魂は、偶然にも、私たちがガラバンダルで知った人々と同じ人たちでした。「神の御旨」の仕事を始めたのは、その同じ人たちです。この魂たちは、静かで瞑想的な生活を送ろうとする傾向があります。それは司祭になることでも、教会を持つことでも、宣教師になることでもなく、「神の御旨」を生きるためなのです。

聖ミカエル・ガラバンダルセンターの記事より和訳

*グスタボ・モレロス神父は、2015年3月7日に87歳で帰天されました。神父が設立した修道会のウェブサイト(スペイン語、英語)はこちら