悲鳴の夜

ガラバンダル・ジャーナル2004年5月-6月号より和訳
エウセビオ・ガルシア・デ・ペスクエラ(カプチン会)著『マリアは急いで山に登った SHE WENT IN HASTE TO THE MOUNTAIN』より抜粋

1962年、キリストの聖体の祝日が近づいていたが、ガラバンダルではこの行事の経過中、際立った出来事が起きた。スペインでは、聖体をたたえるこの祭日を他のどの祭日よりも厳かな外観で祝う。この祝日は間もなく、公会議後の日々において大きく光彩を失うという困難を経験するはずであった。教会における「勝利主義」に対する多くの人々の白熱した論戦の結果、あるいはある種の教義上の混乱の結果、または多くの聖職者たちが熱心に「非聖化」を進めた結果……等の様々な理由によって。ところがガラバンダルでは、1962年はそれまでになかったほどの祝祭となったのだ。

キリストの聖体の祝日の三日前、ある出来事が起こったが、それは十分に注目されてこなかったように思われる。つまり、大天使聖ミカエルの再来のことだ。再来と言ったが、それは大天使が完全にいなくなっていたという意味ではなく、より低い取り次ぎの段階に留まるために、しばらくの間、大天使の現存が減少していたという意味である。時折、少女たちに聖体を授与する司祭の不在を補ったり(訳注:天使が代わりに聖体を授与する)、あるいは無言の証人として、時々聖母に同伴する程度であった。ところがこの時、キリストの聖体の祝日を前に、大天使は最初の出現の時のように、もう一度主導的な役割を担ったのである。

この年のキリストの聖体の祝日は、6月21日の木曜日にあたる。その週の月曜日、6月18日にバレンティン神父が書き残している。「夕方、マリ・クルスが『御絵』(訳注:松林にかけてある聖母の御絵を指すと思われる)のところに行くと、脱魂状態に陥り、その後村へと下った。しばらく経つと、マリ・ロリとハシンタが外に出てきた。彼女らも『御絵』のところに行き、脱魂状態に陥った。少女たちは天使を見たと言っている」。バレンティン神父はこの出来事の新しさに気づいていたのだろうか? 聖ミカエルがふたたび単独でやって来て、単独で行動したのだ。バレンティン神父はこの日が何の日だったか気づいていただろうか? 6月18日である! 少女たちが大天使に同じ場所で遭遇した、ちょうど一年後のことである。この一年の間、どれほど多くの出来事が起きただろうか! そしてさらに多くが起ころうとしていた。翌日、19日の木曜日に神父はこう書いている。

「午後十時半、ハシンタ、マリ・ロリとマリ・クルスは『御絵』のところにいた。前回、ロリとハシンタはそこに走って行き、着いた時には脱魂状態にあった。彼らは天使を見たが、十時半に『御絵』のところに来るようにと天使が言ったということだ。そして彼女らは一旦村へ下り、後にマリ・クルスと共に上って来た。少女たちは叫んでこう言った。『そんなこと言わないで! 私たちを連れてって…… 彼らは告解しなくちゃ! 彼らは準備しなくちゃ!』後になって、少女たちは(天使がそうするように言ったとおり)それを書き留めておくと言った。これが50分間続いた」

この間、コンチータは何をしていたのか? 「路地」で重要な出来事が起こっている間、コンチータはなぜ不在だったのか? オルティス医師のメモが次のことを明かしている。

「私の義理の姉であるエリサ(エリサは娘とともに時々ガラバンダルに来ていた)によれば、6月19日の夕暮れ時に、彼女はコンチータの家で他の人々と会っていたという。コンチータがひざを痛めていたので、母は彼女が外に出るのを許さなかった。少女は程なく脱魂状態に陥り、激しく膝を床に打ってひざまずき、ひざから出血した。エリサはアニセタ(訳注:コンチータの母)に言った。
『コンチータが外に出るのを禁じたところで、何にもならなかったわね。見てごらんなさいよ』
『出かけたとしても、私はかまわないわ』
少女は外には出なかったが、脱魂状態のまま一枚の紙を取り上げ、紙の下端をつかんだまま──空中に!──押さえつけ、その上にペンで書き始めた。人々は懐中電灯を持って近づき、彼女が何を書いているのか読もうとしたが、彼女はそれを隠そうとした。『見ないで』。一人が言った。『見て欲しくないって』。するとコンチータは二階の自分の部屋に上がり、別のペンで書き続けた。これが終わると彼女は通常に戻った。プラシドが家の中に入ってきて、とても興奮しながら叫んだ。
『女の子たちが『路地』で叫んでいたのを聞いた?』
『いいえ』
『恐ろしかったよ!』」

6月19日のこの夜に「路地」で起こった出来事、「悲鳴の夜 Noches de los Gritos」(人々はこの出来事をそう呼び始めた)の初日は、強い印象を与え、深刻なものであったに違いない。私たちはたった今、バレンティン神父のメモの中に「後になって、少女たちはそれを書き留めておくと言った」とあるのを見た。

それは実行された。マリ・ロリとハシンタの署名付きの、1962年6月19日付の短いメッセージの中に見ることができる。これはコンチータが自宅で脱魂状態の下、空中に押さえつけて書こうとした紙に書いたメッセージと同じものだったのだろうか? このメッセージのコピーには数多くのバージョンがあり、それぞれにわずかな相違が見られるが、ここに記すのは、少女たちが自分の手で書き、署名して、信頼できるある人物に渡したテキストのフォトコピーから取ったものである。見たところ、このメッセージは、彼女らが最初の「悲鳴の夜」に見聞きしたことのかすかな省察である。

「聖母は私たちに言われました。罰が来ることを私たちは予期していませんが、それにもかかわらず、それは来ると。なぜなら、世界は変わらなかったからです。聖母はすでに二度、私たちに告げられましたが、世界はさらに悪くなり、私たちも聖母に注意を払わなかったからです。世界は大きく変わらなければならなかったのに、全然変わっていません。自分自身を準備してください。告解してください、罰がすぐにやって来ますから。世界は同じであり続けるでしょう…… これを伝えます。世界は同じであり続けると。変わらないとは、なんと不幸なことでしょう。もし変わらなければ、とても大きな罰がやって来ます。

──マリア・ドロレス・マゾン、ハシンタ・ゴンザレス」

乏しい表現力しか持ち合わせないながら、こうして見解を繰り返すことで、少女たちは自分たちが出現の最中に見聞きした(なんという方法だろうか!)いくつかの基本的な事柄を力強く説き聞かせようと試みている。(写真:1962年、脱魂状態のマリ・ロリ)

1)第一のメッセージで告知された罰──これが通常の罰(chastisement)とは違うものであることが誰にも分かるように、大文字(Chastisement)で記す──が来るのは避けられない。その理由は、この罰から私たちを救うことができるのは、痛悔して改心することだけだからだ。今日の世界で起こっていることはむしろ、最悪の無秩序へと向かう急速な進歩である。

2)祈りと警戒を絶やさず、誠実に神に立ち返ることによって「自分自身を準備する」人々だけが、このすさまじい試練に直面するのにふさわしい状態にある。

その日の夜、少女たちの身の毛もよだつような叫びと涙、途切れ途切れでまとまりのない言葉の後では、ガラバンダルは平穏に眠ることができなかった。しかし翌日はさらにひどかった。サン・パンタレオン・デ・アラス(サンタンデール)のフランシスコ会の院長であったフェリクス・ララサバル神父が朝早く到着した。村でキリストの聖体の祝祭を司式するよう、バレンティン神父に求められたからである。

夕刻になると、熱心な人々がロザリオの時間に告解に行った。大多数の人々は牧場で働いていた。一年のうちでも、非常に多くの労働を必要とする時期だったからである。翌日が祝日であるために働けない場合はとくにそうだった。夜になって暗くなると、ほとんど全員が、何が起こるのかと待ち受けていた。皆が昨夜の出来事に驚かされたからである。エリサ・デ・ローザ・ベラルデはこう書いている。

「午前一時、私は置いてきたロザリオを取りに、マリ・クルスの家に行った。その途中、他の人々はすでに『路地』のところにいると聞いた。私は娘を探すために直ちに戻ったが、見つけられなかった。それから『路地』へ急いで行くと、娘は他の多くの人々と一緒に、マキシミナ──私たちは彼女の家に滞在していた──とそこにいた。その中にはフェリクス・ララサバル神父もいた」

少女たちが言ったことを書き留めたバレンティン神父によれば、彼女たちは……

「昨日と同様、夜十時半に『御絵』のところに行った。彼女たちは天使を見たが、天使は、後で聖母が来られると言ったそうだ。だが、人々は少女たちの近くに来てはいけない──村の一番端にある家よりも先に行ってはいけないということだ。そういうわけで、皆がこれを守った。しかし、間違いなくそこにいた唯一の司祭であったフランシスコ会士の神父が、少女たちがいる所に行きたいという意向を示した。セフェリーノが彼の道をふさぎ、こう言った。「ここでは私たちは皆同等です」。その後、少女たちが激しく泣き叫んでいた様子が聞かれたようだ」

耳をつんざくような金切り声と悲鳴によって皆を恐怖に陥れた、このような出来事が起こるとは、一体少女たちは何を見たのだろうか? 数ヶ月後、マリア・エレロ・デ・ガヤルドはガラバンダルにいて、10月7日日曜日、聖なるロザリオの祝日にロリと話した。他の話に混じって、キリストの聖体の祭日の間に、少女たちは何を見たのかと質問した。

少女は多くを語らなかったが、それで十分だった。

このすべてがまったく異例のことだった。それは誰に対しても、自分の救いについて内省させるに違いない。しかしながら、多くの人々に関しては心配になる。楽観的な「リーダーたち」は、激変しつつある今日の教会の現実に直面しても、「発展のための危機」しか見てとることができない。彼らは「知られざる春」の訪れは確実であることを──どんなしるしによってかはわからないが──見つける。そして、今言われているようなことは、「不吉なことばかりを予測する預言者」としてよく知られているような、時代遅れの預言だと見なす。

本物の預言者とは、神の民が知る必要があることを伝えるために、繰り返し繰り返し送られるものだ。われわれが厳しい警告と懲らしめを何度となく必要としていたことを否定することはできない。

預言の言葉とはそれ自身、偽者と真実の預言者を区別するものだ。神の民がある種の事柄について聞きたがらないことは明らかである、彼らが自分の救いについて努力しているにしても。彼らの指導者たちに至っては、そのようなことはもっと聞きたがらない。預言者エレミヤの時代のイスラエルもこれと同じだった。「不吉なことを予測する預言」による改心の要求は、イスラエルの人々を喜ばせなかった。それよりも、未来の繁栄を告げる喜ばしい預言者たちを選んだのだ。しかし、その後に何が起こったのかはよく知られている。

聖体に関する大きな祝祭である「キリストの聖体」の祝日が、そのような恵みの年である1962年、ガラバンダルでどのように祝われたかは想像に難くない。あのような前夜と、あのような痛悔の秘跡を受けた後では。誰もその荘厳なミサを逃すことはなく、ほとんど全員が聖体を拝領した。その後、清掃され、花で飾られた村の通りで聖体行列が行われている最中には、祝された秘跡のうちに隠れておられる神への崇敬の伝統的な聖歌が歌われた。まるで、全員の注意をこの日祝われた神秘に対して向けさせるためであったかのように、幻視者たちに関して目立ったことは何も起こらなかった。「マリ・クルスは『御絵』のところに行った」。バレンティン神父は書いている。「彼女は通常の状態でそこに行ったが、着いた途端に、ひざまずいて脱魂状態に陥った。だが何も言わなかった。他の少女たちは出現を受けなかった」。

翌日の金曜日、出現はまったく起こらなかった。しかし次の日、6月23日の土曜日には、バレンティン神父は言及していないが、二夜に及んだ「悲鳴の夜」の総括が行われたに違いない。なぜなら、ロリとハシンタからの二つ目のメッセージにはこの日付が記されているからだ。

「聖母はこう言われました。世界は変わらないまま進み続けています、まったく変わっていません。わずかな人々しか神を理解しません、あまりにもわずかで、それが聖母をとても悲しませています。世界が変わらないとは、どんなに不幸なことでしょう! 聖母は私たちに、罰が迫っていると言われました。世界が変わらないので、杯はいっぱいになっています。聖母はどんなに悲しんでおられるでしょう、それを私たちに見せることはお許しにならないとしても。聖母は私たちをとても愛しておられるので、お一人で苦しんでおられるのです、なぜなら、聖母はとても善いお方だからです。皆さん、善い人であってください、聖母が喜ぶことができるように! 聖母は私たちに、善い人々は悪い人々のために祈らなければならないと言われました。そうです、私たちは世界のために神に祈らなければなりません、神を知らない人々のために。善い人であってください、とても善い人であってください。

──マリア・ドロレス・マゾン 13歳
──ハシンタ・ゴンザレス 13歳」

追記:村民全員が告解に行った

(1962年6月19日の「悲鳴の夜」の出現後)

バレンティン神父のノートには、この劇的な出現は午前二時ごろに終わったとある。少女たちはその後、そこに残って、夜通し祈ると行った。多くの人々が少女たちと共にそこに留まることにした。その中にイライザ・デ・ラ・ローザ・ベラルデもおり、こう書いている。

「誰もその場を去らなかったと思います。私たちは彼女たちと一緒に朝六時まで祈りました。その時間(その日の朝日が差すと)ララサバル神父──フランシスコ会の修道士──が教会に向かい、全員が彼について行きました。そして告解の行列ができました。村民全員が告解に行き、この告解は見たところ、本当にまれに見る、真摯な悔い改めのようでした」

『マリアは急いで山に登った』第二巻195ページ
『ガラバンダル・希望のメッセージ』190〜191ページ